単組からの取り組み報告
全国各地の平和資料館等への訪問の取り組み
全国各地の平和資料館等への訪問の取り組み
全労金は、2020年度執行方針において、新型コロナウイルス感染症によって、社会全体の平和運動が停滞しないよう、現地を中心に活動している団体(※戦争体験者の団体や高校生平和大使等)との連携・支援について検討することを確認し、中央執行委員会での議論を踏まえ、全国各地の「戦争」や「平和」をテーマとした資料館等への訪問の取り組みを、全労金組織全体で展開することを確認しました。
当時は、新型コロナウイルス感染症の完成拡大の影響に対する運営維持支援の側面もありましたが、現在では、組合員の平和学習の機会をつくり、平和運動を継承することを目的に、平和資料館等の訪問を継続しています。
本ホームページを通じて、組合員の居住地周辺にも平和資料館等があることを認識し、全労金組織のみならず、家族や友人との共有により、平和への思いを語り継ぎ、社会全体の平和運動を維持・継続させることに繋げたいと考えています。
和歌山県平和祈念資料館(近畿労組和歌山支部からの報告)
和歌山県平和祈念資料館(近畿労組和歌山支部からの報告)
2024年8月17日、単組役員1名、和歌山支部3名、分会組合員9名が、和歌山市にある「和歌山県平和祈念資料館」を訪問しました。
当日は、2階の会議室にて、「全労金・労済労連2024ヒロシマ平和行動」に参加した支部副執行委員長より活動内容の報告を共有し、続いて大阪大空襲に関するDVDを視聴しました。
その後、1階の資料館にて、各自展示品の見学をしました。特攻隊員の直筆の手紙や写真などもあり、若くして失われた命が多くあること、そういった多くの犠牲者の上に現在の平和があることにあらためて気づかされました。
同じことを繰り返さないためにも、今の私たちにできることは風化させないように戦争と平和について知ること、そしてそれを語り継いでいくことが大切であると感じました。
国際平和ミュージアム(近畿労組京都支部/USR担当者会議からの報告)
国際平和ミュージアム(近畿労組京都支部/USR担当者会議からの報告)
京都支部、USR担当者会議参加者でそれぞれ立命館大学国際平和ミュージアムを訪問しました。
このミュージアムは、1992年の開館以来、アジア太平洋戦争の加害と被害、そして、戦争に抵抗した人々の声、この戦争にともなう責任等についての展示を中心としており、2023年9月のリニューアル後でも拡大・深化している施設です。
以下、訪問した際の各支部からの感想を掲載します。
【京都支部/2024年7月5日訪問】
展示物は東アジアの平和を破壊した日本帝国主義を直視し、戦後におけるその克服の努力を見つめ、また、直ちに冷戦・熱戦によって分断された東アジアの状況を伝える内容となっていました。参加者は、ボランティアガイドの方々のサポートのもと、年表展示やテーマ展示、シアターを通じて帝国主義から現代の課題について学びを深めました。その中でも、平和をつくる3つのピースとして「国際機構」「市民社会」「平和の基(国際法や憲章、宣言など)」があるというお話が印象に残りました。参加した組合員が今回学んだことを職場に還元し、「平和で安全に安心して暮らすことができる社会」の実現に向けて取り組んでいきます。
【USR担当者会議参加者/2024年7月30日訪問】
地下展示室では、1840年のアヘン戦争からロシアによるウクライナへの軍事侵攻までを、70メートルにわたる年表で「帝国主義」「十五年戦争」「戦後の世界」「現代の課題」という4つのテーマに分けて展示していました。戦争の記憶と平和の歴史をたどりながら、当時の写真や証言なども掲載されているため、より深く理解することができました。また、期間限定企画として、「平和のための京都の戦争展」と題し、京都にある戦争の遺跡の写真などが展示されていました。特に印象に残ったのは、「十五年戦争」における加害と被害についてのコーナーで、日本が被害国と加害国の両面から展示されており、日本軍から被害を受けた方々やその家族の証言は衝撃的でありました。あらためて戦争の恐ろしさや悲惨さを感じ、二度と戦争という悲劇を繰り返さないためにも、平和とは何かについて考える良い機会になりました。
ピースおおさか(近畿労組大阪/奈良/肥後橋支部からの報告)
ピースおおさか(近畿労組大阪/奈良/肥後橋支部からの報告)
肥後橋支部、大阪支部、奈良支部でそれぞれ大阪国際平和センター「ピース大阪」を訪問しました。
ピース大阪は、大阪空襲の犠牲者を追悼し平和を祈念するとともに、大阪空襲を中心とした情報・資料の収集・保存・展示等を通じて、戦争の悲惨さと平和の尊さを次の世代に伝え、平和を願う豊かな心を育むことを目的とした資料館です。
以下、訪問した際の各支部からの感想を掲載します。
【大阪支部/2024年6月8日訪問】
大阪の地には、戦時中、アメリカ軍の飛行機が50回以上襲来し、15,000人以上の犠牲者が出たといわれています。当時の悲惨な状況を示す資料・映像の展示があり、戦時下での暮らしを当時の写真や実物の物品、実寸大のセットで再現がされており、今とはまったく違う生活をしていたことが目に見えてわかる展示となっていました。私たちは、いつも不自由なく穏やかな暮らしができているが、79年前は自分の身や生活を削らないと生き抜くことができず、苦しい生活を送っていることを今回の見学を通して改めて学ぶことができました。このような悲惨なことが昔あったということや二度と同じことを繰り返してはいけないということを若い世代や未来の子どもたちに継承していかなくてはならないと強く感じました。
【奈良支部/2024年6月8日訪問】
日清、日露戦争から太平洋戦争までの映像、新兵器の登場による被害の増大、戦時下の大阪の暮らし、大阪空襲の証言と体験画の展示があり、「戦争の時代」というだけでは片づけられない事実が資料として残され、展示されていました。展示内容からは、それぞれの人には生活があり、家族があり、命が間違いなくあったことを思いしらされ、そしてそれを理不尽に奪われる恐怖や無念さを自分事のように感じられ、「平和」であることがどれほど大切であるかを考えさせられました。戦争が現実となれば起こりうることだという感想を持ったことから、今後も、組合員、家族や友人との共有により、平和への思いを話していくこと、社会全体の平和運動を継続させることに少しでも繋げていきたいと思いました。
【肥後橋支部/2024年6月22日訪問】
2階の展示室には焼け野原になった大阪の写真が掲示、及び、空襲に至る背景の説明パネルがあり、別の展示室では国民服、食事、教室、民家の模型、手紙の掲示など戦時下の大阪の暮らしについて再現されていました。また、空襲時の証言、及び、絵の掲示もあり、目の前の家族が空襲の犠牲になっていく様子などが記されており、地獄のような状況にはつらいものがありました。1階の展示室では、被弾したレンガ壁、爆弾の模型、写真など空襲時の状況の再現されており、模擬防空壕の中に入ることもでき、実際に入ると狭くて暗く、短時間入るだけでも息苦しさを覚えました。今回訪問したことにより、改めて平和の大切さを考えさせられました。今もなお、世界各地で紛争が起こっているが、平和な社会を一刻も早く実現できるよう取り組みができればと思いました。
滋賀県平和祈念館(近畿労組滋賀支部からの報告)
滋賀県平和祈念館(近畿労組滋賀支部からの報告)
2024年6月8日、単組役員2名、滋賀支部役員3名、分会組合員9名が、近江市にある滋賀県平和祈念館を訪問し、「滋賀と戦争の歴史」についての講義を受講しました。
これまで平和行動・平和学習等で沖縄や広島、長崎を中心に、特に戦争が激化した地域の歴史を学んできたが、戦時中の滋賀県の様子を知ったのは初めてでした。滋賀県にも軍事施設や軍需工場が配備され、アメリカ軍の攻撃対象として何度も空襲があり、その度に犠牲となる方がいたこと、武器制作の為の鉄不足により各家庭の金属が供出され使われ、それでも足りない為に滋賀県の伝統工芸である信楽焼で手りゅう弾や地雷が作られていたこと等を知り、考えさせられました。
滋賀県平和祈念館では、実際に使われていた信楽焼製の手りゅう弾や軍用機、銃撃で穴の空いた壁など本物の展示品があり、当時の様子を伺うことで、戦争の悲惨さ等を再確認することができました。講師の方の説明は、「戦争の記憶が遠ざかる時、戦争がまた私たちに近づく」という言葉で締めくくられ、とても印象に残りました。この言葉のとおり、私たちは日本で戦争があった歴史を忘れることなく、これからの平和が維持される為にも、後世に繋いでいく事が使命だと感じました。
戦没した船と海員の資料館(近畿労組兵庫支部からの報告)
戦没した船と海員の資料館(近畿労組兵庫支部からの報告)
2024年5月29日、兵庫支部役員6名が、神戸市にある「戦没した船と海員の資料館」を訪問しました。
この資料館は、戦争中に沈んだ船(軍艦を除く)と、その船に乗っていて船と一緒に戦死した乗組員の、最後の様子や様々な記録等を集めて展示しています。戦争には、軍艦・飛行機・戦車・大砲など武器、弾薬が必要ですが、これらを作る資源を外国から輸入することも、大勢の兵隊や大量の武器弾薬を戦場へ輸送することも、すべて船(商船)を使わなければならず、日本は、すべての船を戦争のために使う規則を作り、兵隊や武器弾薬を日本から戦場に輸送して、帰りは油、鉱石等の天然資源を積んで日本へ運ぶ計画を立てていました。
しかし、貨物船は戦争ができるようには設計されておらず、武装もわずかであることや、乗組員は戦争するための訓練を受けていないという状況の中で、護衛もなしに次々と戦場への輸送の航海に出たため、敵の潜水艦や飛行機に見つかって次々と沈められ、3年9ヶ月とわずかな期間で7,240隻の日本の船が沈められたとのことです。ガイドの方の案内で資料館を見学し、戦争の悲惨さや歴史を学びましたが、特に印象に残っていることは当時14歳だった少年船員の方々が987名も亡くなった記録が残っておいることです。最後に、今回の訪問で学んだことを周りの方に伝えることで、戦争の悲惨さや歴史を継承していきたいと思いました。
渡来人歴史館(近畿労組滋賀支部からの報告)
渡来人歴史館(近畿労組滋賀支部からの報告)
2023年7月8日、滋賀支部役員、分会組合員14名が、大津市にある「渡来人歴史館」を訪問しました。
渡来人歴史館は、「学びによる国づくり・正確で客観的な東アジア関係史の学習を」をテーマに、朝鮮半島との交流によって先進大国であった中国の文明・文化を受け入れてきた古代の日本から、大国主義とともに自国第一主義を唱え「大東亜共栄圏構想」のもとアジア支配に向って突き進んだ結果、 国家の存亡に関わる重大な危機を迎えた日本の歴史を学び、二度と同じ過ちを繰り返さないために「日本人二千年の歩み」を顧み再考するため、在日コリアンの方が中心となって作られた資料館です。
ガイドの方の案内で資料館を見学し、戦前の日本が「国民の生命や暮らしにどれ程の悪影響を及ぼしたのか」あるいは「アジアの人たちにどれ程の苦痛を与えたのか」を学びました。
参加した組合員が渡来人歴史館で学んだことを職場で還元することで、「平和で安全に安心して暮らすことができる社会」の実現に向けて、組合員全体で取り組みたいです。
姫路市平和資料館(近畿労組兵庫支部からの報告)
姫路市平和資料館(近畿労組兵庫支部からの報告)
6月25日、兵庫支部役員7名、若年層組合員2名が、「姫路市平和資料館」を訪問しました。
姫路市平和資料館は、姫路空襲の被災等に関する資料や映像などの展示を通して、戦争の惨禍と平和の尊さを後世に伝え、平和な社会の発展に寄与するための資料館です。
資料館職員の方に案内していただく中で、「平和とはなんだと思いますか」と問いかけられ、誰も答えられませんでしたが、職員の方の「平和について考えることができる間は平和が続いていく」という言葉に、感銘を受けました。
姫路市が空襲に遭った際の写真や展示品等があり、当時の様子を知ることで、改めて戦争の悲惨さを感じました。このような資料館を、後世に残していかなければならないと強く思いました。
水平社博物館(近畿労組からの報告)
水平社博物館(近畿労組からの報告)
4月18日、奈良県御所市柏原にある「水平社博物館」に単組役員2名、支部役員7名(※USR担当者会議メンバー)が訪問しました。全国水平社は、人間の尊厳と平等を求めて1922年3月3日、京都市岡崎公会堂で創立され、全国水平社の創立は、部落差別撤廃、自由と平等、人権の確立をめざす部落解放運動の原点であり、その精神は水平社運動に身を投じた諸先輩から連綿と受け継がれてきました。その闘いの歴史を後世に伝えるため、水平社創立の中心を担った青年たちが生まれ育った奈良県御所市に水平社歴史館(1999年に水平社博物館に改称)が開館されました。
水平社博物館は、その当時の様子や現在もある差別について、多くを学ぶことがでる施設です。また、博物館での展示では、全国水平社の先駆的な闘いは、日本が侵略戦争に向かう中で、厳しい弾圧を受けることになりますが、全国水平社は当時の内務省や軍部による解散命令や解散届の提出要請に抗して、侵略戦争に反対するとともに、全国水平社存続への努力を重ねましたが、最終的には、法的に消滅した歴史についても知ることができます。このことは、全国水平社が部落差別撤廃に向けた画期的な闘いを組織しながら、戦争協力を余儀なくされた苦渋の歴史として示されています。なお、「人の世に熱あれ、人間(じんかん)に光あれ」の言葉で有名な水平社宣言は、「人間を尊敬すること」「人間を冒涜してはならぬ」とも書かれており、世界で初めての人権宣言とも言われています。
和歌山県平和祈念資料館(近畿労組和歌山支部からの報告)
和歌山県平和祈念資料館(近畿労組和歌山支部からの報告)
2023年4月15日、和歌山支部役員5名、青年層組合員4名が、和歌山市にある「平和祈念資料館」を訪問しました。
和歌山県下で亡くなった方々の遺品や写真が展示されており、改めて戦争や平和について考えさせられるとともに、今の生活が当たり前ではないことに気付かされる貴重な機会となりました。
ピース大阪(近畿労組肥後橋/大阪/奈良支部からの報告)
ピース大阪(近畿労組肥後橋/大阪/奈良支部からの報告)
肥後橋支部、大阪支部、奈良支部でそれぞれ大阪国際平和センター「ピース大阪」を訪問しました。
ピース大阪は、大阪空襲の犠牲者を追悼し平和を祈念するとともに、大阪空襲を中心とした情報・資料の収集・保存・展示等を通じて、戦争の悲惨さと平和の尊さを次の世代に伝え、平和を願う豊かな心を育むことを目的とした資料館です。
以下、訪問した際の各支部からの感想を掲載します。
【肥後橋支部/2023年5月27日訪問】
戦争の実体験はなくとも、焼け野原になった写真、当時の服装、被弾した壁などの展示などにより、戦争の悲惨さが伝わってきました。また、戦争の背景等を理解し、あらためて平和を自分自身の課題として考える機会となりました。
私たちが何気なく過ごしている日々も、昔の悲惨な戦争の上にあることを忘れてはならないと強く思いました。
【大阪支部/2023年6月17日訪問】
昔の戦争の記録を写真などで展示されており、写真で見ると戦争の悲惨さが良くわかり、平和であることが何よりも大切であると改めて感じました。
自分たちの暮らしを守るために、「平和で安全に安心して暮らすことができる社会」の実現に向けて、取り組みを進めていくことを参加者全体で確認しました。
【奈良支部/2023年6月17日訪問】
1945年終戦前の半年間に8回の空襲を受け、京橋・難波・四ツ橋と大阪の広範囲が焼野原となったことを、今回の訪問で初めて知りました。
また、背丈ほどの爆弾や召集令状、当時の資料を見学し、B-29の影が空を埋め尽くし、焼夷弾が降り注ぐ大阪のプロジェクションマッピングや防空壕に入っての緊張と恐怖の体験等で、当時は毎日が死と隣り合わせだったと想像でき、平和について改めて考えさせられる経験となりました。
ウトロ平和祈念館(近畿労組からの報告)
ウトロ平和祈念館(近畿労組からの報告)
2022年7月23日(土)、京都府宇治市にあるウトロ平和祈念館に、単組・支部役員4名が訪問しました。ウトロ平和祈念館は、日本と朝鮮半島の歴史や、日本で生きてきた在日コリアンの歴史、そして、さまざまな困難を乗り越え、ともに歩んできた日韓市民、それらの記憶と思いを伝え、未来へとつないでいくために建設された資料館です。
全労金は、この間の平和行動等で日本の加害の歴史についても学んできましたが、ウトロ平和祈念館でも、日本の朝鮮半島の植民地支配等、加害の歴史や差別について、そして、ともに運動をしてきた日本市民についても知ることができます。ウトロ地区は、アジア太平洋戦争末期に、国策の飛行場建設に従事した朝鮮人労働者が集落を形成し、戦後も子孫らが暮らしてきた場所です。2021年8月30日午後には、平和祈念館周辺において、地区の空き家や倉庫等が放火によって全焼しました。逮捕された犯人は、他に愛知や奈良の民団(在日本大韓民国民団)施設への放火も認めています。
本祈念館は、今年の4月に開館となりましたが、放火により、記念館に展示される予定であった貴重な資料が消滅していることからも、今回の訪問内容にちてニュースを発行し、組合員と共有するとともに、取り組みの意義も発信していくこととします。
高松市平和記念館(四国労組からの報告)
高松市平和記念館(四国労組からの報告)
2021年10月9日、香川県高松市にある高松市平和記念館を訪問しました。
高松市平和記念館は、戦前の高松、空襲、終戦、復興、平和への取り組みへと至る展示を見学することで、歴史の時間の流れを学ぶとともに、未来の平和を考えるきっかけをつくることを目的として資料展示室を設置しています。資料展示室では高松空襲が起こった経過や被害の実態、そこから戦後の復興に至るまでを模型や写真を交えて展示しています。
高松空襲は1945年7月4日アメリカ軍により行われたものです。空襲は7月4日午前2時56分から午前4時42分まで続き、1時間40分に及ぶ空襲で市街地の8割が焼け野原となり、1,359人の尊い生命が失われました。
出征する兵士を見送る家族の場景を中心に、太平洋戦争に至るまでの経緯、配給制・代用品・金属回収などの物不足の生活実態や当時の貧しい食事、町内会・隣組・勤労奉仕など戦争へ向けての総動員体制、学童集団疎開、徴兵制、防空偽装など、戦前・戦時下の様子を紹介しています。
太平洋戦争時下において、高松大空襲があり、多くの犠牲者が出たことは知識として知っていましたが実際の展示物を見ることや、空襲を実際に体験された方々のお話を映像ではありますが聞かせていただくことで自分自身もその場にいたかのような感覚に陥りました。偶然ではありますが、インタビューを受けていた空襲体験者の中に高校時代の恩師もおり、学生時代に平和の大切さについて熱心に語られていたことも思い出しました。
戦争で失われた命を取り返すことはできません。しかしこれからの時代を生きていく私たちの努力と責任で絶対に戦争を起こさせないことはできます。おろかな争いの中で命を落としていったすべての人たちの無念さを決して無駄にすることなく平和な世界を築いていくために、組合員一人一人が考えて行動していかなければなりません。
ピース大阪【大阪国際平和センター】(近畿労組大阪支部からの報告)
ピース大阪【大阪国際平和センター】(近畿労組大阪支部からの報告)
7月3日、大阪城公園内にある「ピース大阪【大阪国際平和センター】」を訪問しました。
ピース大阪は現在、大阪空襲をメインとした備品を展示しており、世界に向けて戦争の悲惨さと命の尊さを訴えています。
この写真は、空襲で被弾した水筒です。持ち主は無事でしたが、銃弾痕が生々しく残っています。
こちらの写真は、戦時中の小学生の教科書と日記です。その当時の子どもの営みを感じ取ることができました。
空襲に遭い亡くなった方の衣服等も展示されており、胸が締め付けられる思いがしました。75年以上前の出来事であり、戦争を直接経験したことはありませんが、確かにその当時にも人々の暮らしがあり、命があったのだと感じることができました。
その当時、軍事費を確保するために国が国民に向けて貯蓄推奨の広告を作っていました。大阪市民は、1944年には36億円と、当時の大阪市歳出総額の14倍以上の数字を課せられていました。国民が切り詰めた生活を余儀なくされた事が伺えます。
写真で紹介したのは「ピース大阪」に展示していた備品のほんの一部です。皆さんも是非、訪問してみてはいかがでしょうか。小学生の頃は夏休みになると平和学習を受ける機会がありましたが、大人になるにつれ、そのような機会は減っていくように思います。再度、平和について考えるきっかけになると嬉しいです。
アウシュビッツ平和博物館(東北労組からの報告)
アウシュビッツ平和博物館(東北労組からの報告)
2021年7月24日、福島県白河市にある特定認定非営利活動法人アウシュビッツ平和博物館を訪問しました。
本博物館は第二次世界大戦時にナチスドイツが占領地ポーランドに建設した最大級の強制収容所「アウシュビッツ」で起きた人種差別による絶滅政策、及び、強制労働の状況を知り、「いのちと平和の尊さ」を伝えるため、ボランティアの手によって建設・運営されています。
入館後はまずアウシュビッツでの当時の状況を知るための動画を鑑賞し、その後展示されている関連資料や犠牲者の遺品、記録写真等を見学するかたちとなっています。なお、展示品はポーランド国立アウシュビッツ博物館から提供されているものです。その他、アンネ・フランクに関する第二展示室、子どもの視点から戦争の様子を映し出している第三展示室も同敷地内にあります。
アウシュビッツ強制収容所については学校教育の教科書における文面内容のみ知識でありましたが、本博物館訪問により当時の様子を直接感じることで、二度と起こしてはならない負の歴史であることを再認識できました。ここでの経験を他組合員へも伝え、訪問により実感してもらえるよう、これから行動していきたいと思います。
仙台市戦災復興記念館(東北労組からの報告)
仙台市戦災復興記念館(東北労組からの報告)
2021年7月10日、宮城県仙台市にある仙台市戦災復興記念館を訪問しました。
仙台市戦災復興記念館は、仙台空襲と復興事業の記録を保存し、戦災と復興の全容を後世に伝えることを目的として資料展示室を設置しています。資料展示室では仙台空襲が起こった経過や被害の実態、そこから戦後の復興に至るまでを模型や写真を交えて展示されており、仙台空襲があった日である7月10日にあわせ、「戦災復興展」を毎年開催しています。
今年の企画展は、「東北大学と戦争体験」(東北大学学術資源研究公開センター)、「戦時下の東北学院Ⅱ」(東北学院史資料センター)、「防空壕の記憶」(仙台・空襲研究会)が展示され、語り部たちによる空襲体験を聞く機会も設けられていました。終戦から76年、悲劇を二度と繰り返さないためにも、組合員一人ひとりが平和への思いを繋いでいく行動が求められていると感じました。
鳥取県立図書館・旧陸軍墓地(中国労組鳥取支部からの報告)
鳥取県立図書館・旧陸軍墓地(中国労組鳥取支部からの報告)
私たち鳥取支部青年幹事会は、青年組織の平和学習の一環として 5月22日(土)に鳥取県立図書館と旧陸軍墓地の二か所を訪問しました。鳥取県立図書館は一部戦争に関するコーナーが設けられており、旧陸軍墓地は鳥取の戦没者を祀った墓碑があります。
鳥取に長年住んでいて 、沖縄や広島、長崎と戦争に関するニュースを聞くことはあっても、 鳥取と戦争に関する話を聞くことは少ないように思います。しかし、実際に鳥取でも空襲はありましたし、 GHQ による占領もありました。今では観光地として有名な鳥取砂丘ですが、戦時中は陸軍の演習場となっていたのを皆さんは知っていますか?
メディアでは沖縄や広島、長崎がクローズアップされますが、鳥取でも戦争による被害はあり、戦火により亡くなった方々や、戦争に動員され亡くなった方々は存在します。鳥取で暮らす我々も、平和について学び、後世に伝えていく義務があります。それを今回の平和訪問で痛感しました。
まず、鳥取県立図書館ですが、戦争に関するコーナーがあり、何点かの写真と案内文が掲示されています。特に注目したのは、GHQ進駐軍兵士として鳥取に駐在していたジェームズ・ロビネット氏(1920~2011) が、1952 年4月18日に撮影した写真です。戦後の鳥取市街地が鳥取大火により焼失してしまっている写真です。
大火により、焼失してしまった市街地も惨憺たるものですが、鳥取県も例外なくGHQによる占領を受けていたことに衝撃を受けました。
次に、旧陸軍墓地を訪れました。旧陸軍墓地では、明治以後に殉死された多くの方が埋葬され、個人墓・合葬墓合わせて4974柱が埋葬されています。1896 年12月1日に 、鳥取市岩倉で「 歩兵第四十連隊」が創設されたことに伴い、1897年2月に当地が創設されたようです。
日清戦争が1894年8月~1895年4月ですから、その後に鳥取市で軍隊が創設された流れとなります。日清戦争後、日本は日露戦争(1904~1905年)、第一次世界大戦(1914年)、日中戦争(1937年)、 太平洋戦争(1941~1945年)と戦争の時代が長く続き、鳥取県も例外なく戦争の時流に巻き込まれていました。 訪れた感想としては、墓石に多くの方の名前が刻まれており、人が命を落としてしまう戦争というものの怖さを改めて感じました。
私たちは今、普通に働き、生活ができています。この生活も「平和」であることが大前提ですから、「平和」を守っていくために、過去から学び、今できることを実践していきたいと、今回の活動を通して感じました。
【訪問した感想】
○ 私たちは戦争のない平和な日本に生まれ、今まで命の危険を感じたことはありません。戦争や悲劇の歴史について知らない 世代に、私たちの記憶や経験を伝えていく必要があると、今回の活動を通して改めて感じました。
○ 今回訪問した鳥取県立図書館と旧陸軍墓地は初めて訪れる場所だったため、新たな視点で平和について考えることができました。このように意識を持って学習し、過去の出来事を風化させず次の世代へ伝えていくことが大切だと感じました。
永井隆記念館(中国労組島根支部からの報告)
永井隆記念館(中国労組島根支部からの報告)
島根支部青年幹事会は、平和学習の一環として、5月22日に雲南市の永井隆記念館を訪問しました。
永井隆博士は雲南市出身であり、長崎医科大学へ進学。その後、放射線医学を専攻し1940年に助教授、1944年に医学博士になったのち、放射線医学の研究により白血病を患いました。1945年に原爆により、頭部動脈切断の重症を負いながら、自分の命を顧みず負傷者救護や長崎の復興のため、最後まで医師としての使命を貫きました。
終戦後は病床に伏しながら、執筆活動を続けました。科学者であると同時に文芸家でもあった博士は「この子を残して」「長崎の鐘」などの著作を通し、「如己愛心」「平和を」の精神を日本のみならず世界に向かって訴え続けました。
1970年に博士の業績を顕彰するために旧永井隆記念館が建設され、「平和を」の精神が次世代に引き継がれることを願い、2021年4月20日にリニューアルオープンされたそうです。
島根県出身の幹事3人でしたが、今回が初めての訪問でした。博士の精神を学び、平和の尊さを青年層から発信していけるよう、これからも積極的に学習していきたいと思います。
雲南市は桜の名所でもあります。また訪れてみたいと思います。皆さんもぜひ足を運んでみてください。
陸奥記念館(中国労組山口支部からの報告)
陸奥記念館(中国労組山口支部からの報告)
陸奥記念館は、1943年に沈没した戦艦陸奥の船体の一部や全国から寄せられた遺品、資料が展示されており、乗組員の冥福を祈り、当時の戦争の悲惨さを後世に伝え、恒久平和を願うために建立されました。
山口支部青年幹事は、平和学習の一環として山口県周防大島町にある陸奥記念館を訪問しましたので、学習内容について報告します。
みなさんは「戦艦」と聞いて何を思い浮かべるでしょうか?
日 本の戦艦といえば「大和」や「武蔵」が有名ですが、「陸奥」はそれ以前に戦艦「長門」の姉妹艦として建造され、竣工当時世界に7隻しか存在していなかった40cm砲搭載戦艦として、「世界七大戦艦」と呼ばれ、当時の日本の力を象徴する超弩級戦艦でした。
1943年6月8日、「陸奥」は原因不明の爆発事故を起こし柱島沖で沈没しました。
乗員1,471名のうち助かったのは350人のみで、死者のほとんどは溺死ではなく、爆死であったとされています。爆発の原因について、爆発事故直後に諮問委員会が編成され、約300万円(当時)をかけて陸奥の第三砲塔弾薬庫とまったく同じ構造の模型を建造し各種の実験が行われましたが、火薬発火説・人為爆発説とも確実な証拠は得られず、いまだに原因は明らかになっていません。
1943年に陸奥が沈没してから4年後の1947年に一度引き上げ作業が試みられましたが、作業は困難を極め、一旦中止となりました。その後、遺族や生存者の方の熱意が実り、1970年から船体の引き上げ作業が再開されました。陸奥の引き上げにあたっては85㎜ワイヤー8本が切断する等、困難な作業が続きましたが、海底で船尾部分を切断し日本で初めて100㎜ワイヤーを使用する等して引き上げが行われました。しかし、陸奥の沈没から20年以上が経過しており、海水の透明度も低いことから船体の約75%が浮揚されたところで作業は終了しました。今まだ船橋部と艦首部等を除く艦の前方部分が海底に残っています。
引き上げされた部分は陸奥記念館をはじめとして展示されているほか、「陸奥」の装甲や船体に使用されていた鉄は現在製造されている鉄と違い、その工法の違いから「コバルト60」という物質が混入していないため微量の放射能測定を行うことができ、日本各地の研究所や医療機関において「陸奥鉄」の名で重宝されています。
東日本大震災の後、現場周辺で採取された土や水を測定することにも用いられており、戦艦とは用途が違うものの、震災復興にも役立っています。
【訪問しての感想】
初めて陸奥記念館を訪れて、今の当たり前の生活はとても幸せなことだと改めて感じました。特に沈没までに母親や残される家族に宛てて書かれた遺書も展示されており、読めない部分もありましたが、「ありがとう」等の言葉が並んでいるのを見て心が痛みました。実際に戦争を体験していない私たちが平和を続けていくために、平和学習を継続していきたいと思います。
今回の学習を通じて、今自分が過ごしている日常が当たり前ではないと感じました。特に陸奥の乗員は実際に戦闘を行ったわけではないにも関わらず、多くの死者がでており、戦力の保持、増大がもたらしたもので、他人ごとではないと感じました。
陸奥記念館を訪れるのは初めてでしたが、自分の知らない歴史を学ぶことのできる貴重な時間でした。
今回陸奥記念館を訪問しましたが、正直訪問するまで山口県にこのような場所があることを知りませんでした。陸奥記念館では戦艦陸奥の歴史に触れ、また展示された遺品等を拝見し戦争の悲惨さを身に染みて感じました。今回の平和活動で改めてこれから未来永劫平和であり続けることを願い、戦争の悲惨さを後世に伝えて行かなければならないと思いました。
大変貴重な平和活動となりました。
岡山平和祈念館(中国労組岡山支部からの報告)
岡山平和祈念館(中国労組岡山支部からの報告)
私たち、岡山支部青年幹事会は、平和学習の一環として、6月26日に岡山平和祈念館を訪問しました。岡山平和祈念館は岡山県遺族連盟が、一昨年の創立70周年を記念して岡山県護國神社の境内に建設された資料館です。
岡山県ご出身の戦没者のご遺族から提供された方の遺影はじめ、戦地から家族に宛てた手紙や軍服、返還された戦争当時の日章旗等が展示されています。1931年の満州事変から終戦までのあゆみまでをパネル展示等で確認できます。また、ビデオ室を設けてあり、次世代を担う子供たちをはじめ、多くの人々が戦争の悲惨さ、平和の尊さを学び平和を願うための各種作品を見ることもできます。近年、戦没者の方のご遺族も高齢化が進んでおり、このような大変貴重な資料を直に見て学習することができる数少ない場所だと感じました。
昨年、今年と続き、広島の平和行動に参加ができない中、岡山県内の平和に関する施設に目を向ける良い機会となったと思います。普段、みなさんも平和について学習する機会はあまりないと思いますが、岡山平和記念館は市内でも比較的中心部にあり、アクセスもしやすい場所にあるので皆さんもぜひ一度足を運んでみてください。平和の尊さを青年層から発信していけるよう、これからも積極的に学習していきたいと思います。
福山市人権平和資料館(中国労組広島支部からの報告)
福山市人権平和資料館(中国労組広島支部からの報告)
わたしたち広島支部青年幹事会では、青年組織平和学習の取り組みとして、7月10日(土)に福山市人権平和資料館を訪問しました。
福山市人権平和資料館は、JR福山駅より徒歩10分程度の場所にあります。開館時間は9時30分から17時までです。展示室は2つあり、展示室Ⅰ【平和部門:福山空襲の実相と戦時下のくらし】と、展示室Ⅱ【人権部門:部落の歴史と解放のあゆみ】となっています。それぞれ学んだことを紹介します。
まず、【平和部門】です。みなさんは福山で空襲があった事実をご存知ですか?広島支部青年幹事会のメンバーは、みな広島市出身ということもあり、広島の原爆は小さい頃から学んできましたが、恥ずかしながら福山の空襲について知りませんでした。学んだことを紹介します。福山への空襲は1945年3月から始まりました。最初は、アメリカ海軍艦載機(※①)によって、大野津村の福山海軍航空隊への機銃掃射(※②)が繰り返されました。7月31日夜、B29が一機飛来し、空襲予告のビラ約6万枚を散布しました。そして、8月8日22時25分、91機のB29が襲来し、約1時間にわたり、556トンの焼夷弾を投下しました。市街地消失面積は314㌶、(市街地の約80%)犠牲者数355人、重軽傷者数864人、焼失家屋数10,179戸、被災人口47,326人(市民の81%)と、悲しい出来事がありました。
※②機関銃で敵をなぎ倒すように、上から下に向けて射撃すること。
続いて【人権部門】です。こちらでは、「部落の歴史と解放のあゆみ」「差別の現実とわたしたちの課題」「人権文化が根づいた社会をめざして」「豊かな明日をもとめて」という項目で資料の展示がされています。わたしたち広島支部青年幹事会メンバーの率直な感想は、「こういった差別の事実を詳しく知らなかった。平和慣れしていることを痛感した」でした。義務教育時に社会の授業で「部落差別」について学んでいるはずですが、部落差別が具体的にどのようなものであるのか、どういう被害を受けているのか、という点では無知でした。
2010年度福山市民意識調査結果によると、『部落差別があると思いますか?』という問いに対して『ある』『少しはある』と思っている人は51.3%であり、『それはどんな場面ですか?』という問いに対しては『結婚』が81.3%と最も高い結果となっています。
今回の訪問で、全員が平和祈念都市出身でありながら、まだまだ知らないといけない事実・考えていく必要がある問題があることを痛感しました。今回の訪問をきっかけに、わたしたちの生活にとって基本となる大切な恒久平和の実現と、同和問題解決をはじめとする人権の確立について、考えていこうと思います。
長岡戦災資料館(新潟労組からの報告)
長岡戦災資料館(新潟労組からの報告)
2021年7月10日長岡駅前にある長岡戦災資料館に訪問しました。本取り組みの背景として、現在、全国各地の平和資料館等は、新型コロナウイルス感染症の感染拡大により運営に影響を受けていることから、全労金・単組・中間組織の役員、並びに、組合員が訪問することで、資料館等の運営維持・支援、そして、組合員の平和学習の機会とするという目的があります。
今回訪問した長岡戦災資料館は2003年7月、長岡空襲の惨禍を記録・保存し、伝えていくために開設されました。長岡空襲は第二次世界大戦末期の1945年8月1日アメリカ軍により行われたものです。空襲は8月1日午後10時30分から翌8月2日午前0時10分まで続きました。1時間40分に及ぶ空襲で市街地の8割が焼け野原となり、1,488人の尊い生命が失われました。花火が有名な長岡まつりは空襲の1年後に開催された「長岡復興祭」が起源といわれています。
館内には当時の生活用品や爆弾の模型、写真等が展示されています。来館者は主に学校の授業の一環で訪れる小・中学生や観光客ですが、現在は新型コロナウイルス感染症の影響により人数制限を設けているため、来館者数が減少しているとのことでした。空襲は私たちにとって想像もつかないような惨禍ですが、資料館を訪れると当時の人々の感情に想いを寄せることができます。このような惨禍が繰り返されないよう、平和運動の取り組みとして、後世に語り継いでいかなければならないものであると改めて考えさせられました。
また、私たちの居住地周辺にも平和資料館等があることを認識し、訪問することで、全労金組織のみならず、家族や友人との共有により、平和への思いを語り継ぎ、社会全体の平和運動を維持・継続させることにつなげていきたいと考えています。是非みなさんも地元にある平和に関連する施設を検索していただき、足を運んでみてください。なお、長岡戦災資料館は入館無料のため、書籍を購入し支援の取り組みとしました。
にしき ひみつ基地ミュージアム(九州労組熊本支部からの報告)
にしき ひみつ基地ミュージアム(九州労組熊本支部からの報告)
今回、熊本県人吉市にある「にしき ひみつ基地ミュージアム」を訪問しましたので、紹介します。今回、訪問したのは、「人吉海軍航空基地跡」を紹介するフィールドミュージアムです。
1943年、日本は太平洋戦争中でした。熊本県人吉市錦町は、鹿児島県鹿屋市(鹿屋基地)と宮崎県宮崎市(赤江基地)から近く、台地であったことから、後方支援を目的として、この地に海軍基地が建設されました。同時に、魚雷の製造も行われていました。
ただし、錦町は霧が濃く、航空機が発着するには必ずしも理想的な場所ではなく、練習生の演習場になっていたそうです。
本施設内では、
30分間程度のガイドツアーが、30分おきに開催されていました。私たちが、訪問したのは、7月22日(木)4連休初日でしたが、予約不要で、ガイドに参加できる状況でした。
少人数のガイドツアーのため、移動中にも多くの話を聞くことができ、ガイドは地元の方です。ガイドの方によると、当時全国から練習生が錦町にやって来ていたそうです。九州の南に位置することから南国だと思い、この地に来た練習生ですが、錦町は冬にはマイナス10度になることもあり、凍傷になった人もいたそうです。
一般の人が本施設を観覧できるようになったのは6年前であり、戦争について学ぶことができる施設としては、比較的新しい施設です。
地元の方が長年、ただの大きな防空壕だと勘違いしていたことが理由ですが、GHQの資料を調べていた方が気づき、私有地でトラクター等の物置にしていた洞窟が、今の「人吉海軍航空基地跡」です。
施設の中には、演習機のレプリカや、太平洋戦争時のことについて学ぶことができる資料館があります。写真の機体は、オレンジ色ですが、この色は、練習生であることを示しているそうです。
また、学生服等、当時の資料が展示され、閲覧ルームでは、蔵書や動画視聴もできます。
「にしき ひみつ基地ミュージアム」では、感染症予防の徹底を行っており、安心して訪問できます。トイレ等も充実しており、家族連れの訪問でも十分に有意義な時間を過ごすことができるのではないでしょうか。
本施設は、新型コロナウイルス感染症と共に、2020年7月の豪雨で被害を受けているとのことです。その中でも、後世に戦争の悲惨さを語り継ぐために、職員の方々は、前向きに営業を行っています。興味のある方は、「にしき ひみつ基地ミュージアム」まで足を運んでみて下さい!
東京都復興記念館(セントラル労組からの報告)
東京都復興記念館(セントラル労組からの報告)
労働組合は「雇用と生活の安定」の実現をめざしていますが、それには「社会が平和で安定していること」が大前提であるため、平和活動を行っています。セントラル労組では、平和学習として執行委員が2021年6月13日、東京都復興記念館を訪問しましたので、報告します。
東京都復興記念館は、都立横網町公園の施設の一つであり、関東大震災と東京大空襲の被害と、それぞれからの復興の様子を実物展示をメインに紹介しています。
関東大震災に関する展示は、震災の被害状況等を示すもの(避難民の人的被害や、震災で発生した火災旋風の威力を示す地図、工場のパイプ、硬貨およびトタン屋根等火災の高熱によって変形した金属製品等)と、復興事業の概要(内務大臣後藤新平を中心とした帝都復興院の活動、復興資金の使途等)が主なものでした。そのほか、子供たちに震災の被害やそれに対する備えを教えるための紙芝居やカルタ、徳永柳洲、有島生馬といった画家の手による大型絵画等の美術品、震災からの復興を記念して行われた帝都復興展覧会に展示された復興大模型等が展示されていました。
この関東大震災とその復興の展示から、震災復興が実にうまくいったことが伺えます。震災のあった1923年9月1日には山本権兵衛首相が組閣中だったにもかかわらず、翌日に旧東京市長の後藤新平を内務大臣に登用し、大きな権限を与え迅速に復興に取り組みました。その結果、東京には数年以内に100以上の小学校が建設され、橋梁は耐火性の高い鉄筋になり、幹線道路が整備され、公園の増設や区画整理により災害に対する高い抵抗力を持った近代都市へと東京は刷新されました。このように復興が成功した背景には、無数の労働者による復興への強い希望があったことは間違いありません。
また、「有りもせぬ事を言い触らすと処罰されます。朝鮮人の凶暴や、大地震が再来する、囚人が脱監したなぞと言伝へて処罰されたものは多数あります。時節柄皆様注意して下さい」と警視庁が出したビラが展示されていました。震災直後に流言が飛び交い、救助、復興に向けて協力し合うべき住民が自警団を組織して特定の人々を排除したことも事実でした(展示されていた作品を描いた画家の竹久夢二のように、自警団に批判的な人物もいました)。
近代都市に復興した東京は、わずか22年後に戦災に見舞われます。東京都復興記念館の2階は、その東京大空襲の猛威を伝える展示がされていました。日本家屋を効率よく焼滅させるための油脂焼夷弾、おそらく持ち主が死亡した時に針の動きを止めた懐中時計といった展示物は、前回訪れた「しょうけい館」の負傷兵のジオラマと同様に、当時の人々の筆舌に尽くしがたい苦痛を感じさせます。また、展示されていた被害状況を示す写真の中には、撮影者(警視庁の職員)が戦後GHQから隠すために、自宅の庭に埋めていたというものもあり、往時の不自由さを感じさせるものがありました。
【訪問を終えて】
今回の訪問で、多くの人々の労働と莫大な資金をかけて成し遂げた復興がわずか1日で焼き払われてしまうことが戦争の現実と思い知らされます。
関東大震災の復興に関しては、諸外国から多くの支援金が送られましたが、その最大の援助国はアメリカ合衆国であったことも展示されていました(1920年代の日米関係はおおむね良好でした)。同国では、「Do it for Humanity.」というフレーズで新聞広告やポスターによる啓発が行われ、支援活動は社会的な運動として広がりを見せましたが、その協力者のうちのどれほどが、自らの軍隊が(条約に反して)東京大空襲で10万人の民間人と復興を支援した都市を無差別に焼くと想像できたでしょうか。
復興記念館に隣接する慰霊堂には、震災、戦災合わせて約163,000体の御遺骨が安置されています。近しい人を突然亡くした人々が大勢いたこと、現在当たり前のように便利な生活を提供する東京という都市のインフラがある日突然失われる可能性があることを記憶にとどめるため、平和資料館を訪問することを検討されてはいかがでしょうか。
筑前町立大刀洗平和記念館(九州労組本部支部からの報告)
筑前町立大刀洗平和記念館(九州労組本部支部からの報告)
2021年3月28日、本部支部書記次長、青年代表幹事、青年幹事の3人で筑前町立大刀洗平和記念館を訪問しました。
大刀洗平和記念館は、かつて東洋一と謳われた、旧陸軍大刀洗飛行場に建てられた資料館です。この地には、大刀洗飛行場を中心として一大軍都が存在し、歴史的な役割を果たしながら大きく発展していきました。しかし、1945年3月、アメリカ軍の大空襲により壊滅的な被害を受け、民間人を含む、多くの尊い命が失われました。また、この飛行場は特攻隊の中継基地として、多くの若き特攻隊員たちの出撃を見送った場所でもあります。
訪問した日は、実際に大空襲があった翌日であり、多くの方が見学に来ていました。大刀洗飛行場は、現在の大刀洗町、筑前町、朝倉市にまたがっており、関連施設も含めると394万㎡あったとのことです。福岡空港の敷地面積が353万㎡ですので、どれだけ広大な敷地だったかが分かります。
記念館の中は、実際に特攻に出撃した陸軍戦闘機「九七式戦闘機」や、世界に唯一現存する海軍の「三二型零式艦上戦闘機」が展示されていました。その他にも、死を覚悟して特攻に出撃された兵士の方の写真や出撃前に家族にしたためた遺書なども展示されていました。
参加者の中には、大刀洗飛行場の存在を知らない組合員もおり、記念館で上映されているシアター映像の鑑賞や、戦火をくぐり抜けてきた資料を閲覧することにより、当時の人々の思いを感じる時間となりました。
今回の訪問をきっかけとして、多くの尊い犠牲のうえに現在の平和と繁栄があることを深く感謝しなければならないという思いが強くなりました。そして、戦争の悲惨さを後世に伝えていくためにも、労働組合を通じた平和への活動を継続して、平和へのメッセージを発信し続けることが大切であると改めて感じることができました。
みなさんもぜひ大刀洗平和記念館を見学して、心身で平和の大切さを感じとってみてください。
満蒙開拓平和祈念館(長野労組からの報告)
満蒙開拓平和祈念館(長野労組からの報告)
2021年6月4日、長野県阿智村に所在する平和記念資料館である、「満蒙開拓平和祈念館」に訪問しました。
満蒙開拓平和祈念館は第2次世界大戦前に日本が中国東北部に設立した満州国に移住した満蒙開拓団の過酷な運命や歴史を展示した資料館であり、2013年に開館となり現在8年目を迎えています。県や市町村の補助により貴重な資料が多く展示されていることもあり、コロナ前は年間2万5千人に及ぶ来館者がありましたが、コロナ以降は激減しているとの報告であり、館内職員の方からは「訪問いただいて大変ありがたい」とのお言葉も頂戴しました。
館内では「満蒙開拓の真実」と題したDVD動画を視聴しました。日本が国際連盟を脱退し満州国を設立した背景にあって、世界恐慌以降国内の農村を中心に貧困にあえぐ家庭が多い中、多くの方が農業移民として夢をはせ新天地へ渡ったものの、ソ連軍の侵攻や現地中国の反日組織による銃撃等により広野を逃げ惑うこととなり、その結末は病気や飢え、あるいは集団自決により多くの方が亡くなるという悲劇を生むことに至った経緯について学習しました。
また、館内には当時の様子を記した貴重な文献や写真等が多く展示されており、移住から弾圧、帰国、日中正常化後の残留遺児との再会まで、その歴史を時系列に学ぶことができるようになっています。
コロナ禍ではありますが、館内の感染対策は十分に図られていますので、お時間がある際には是非満蒙開拓平和祈念資料館を訪問してみてはいかがでしょうか。「歴史を忘れた民族は滅びる」と言われます。労働組合は「将来・未来への責任」を果たす組織でもあります。歴史を知り当時の状況を振り返ることで今、将来に向けた責任を果たしていくことに繋がると感じます。
昭和館(セントラル労組からの報告)
昭和館(セントラル労組からの報告)
昭和館は、1935年頃から1955年頃までの国民生活上の労苦を伝える実物資料を常時展示しています。
戦中の暮らしを伝える資料には、出征する兵士のための千人針、戦地の兵士から家族宛の手紙(検閲済み)、陶製アイロンや庶民の服装、子どもが戦争ゴッコで使うおもちゃの軍刀等が陳列されていました(※防空壕体験等の展示は、コロナ対策のため中止)。
戦後の暮らしを伝える資料には、戦災孤児や未亡人の困窮、闇市の食糧事情や焼け跡からの住宅事情を伝えるデータ等が陳列されていました。
平和記念展示資料館企画展(セントラル労組からの報告)
平和記念展示資料館企画展(セントラル労組からの報告)
平和記念展示資料館は新宿にあり、兵士、戦後強制抑留者、及び、海外からの引揚者の労苦について展示することを目的としています。
今回は、宮崎静夫企画展が九段生涯学習館で開催されたため見学しました。
宮崎静夫(1927-2015)は、シベリア抑留を経験した洋画家です。14歳で「満蒙開拓青少年義勇軍」に参加し、17歳で関東軍に入隊、ハルビンで終戦を迎え、終戦後は4年間のシベリア抑留を経験しました。
シベリア抑留から解放された後に洋画家としての研鑽を積み、〈死者のために〉シリーズの絵画を通じて、シベリア抑留者や開拓義勇軍への鎮魂を描き始めます。
展示されていた絵の多くは、地平線のある草原を背景としており、義勇軍の団員や鉄兜、靴、及び、収穫物等を描き、戦争で亡くなった友を悼む想いが込められていました。
しょうけい館(セントラル労組からの報告)
しょうけい館(セントラル労組からの報告)
しょうけい館は、戦傷病者とその家族の労苦を伝えることを目的としています。
企画展では、武良茂(水木しげる)の出征から復員に至るまでの作品や個人資料、映像が展示されています。
常設展では、2階には野戦病院のジオラマがあり、粗末な洞窟の中に複数の負傷兵と執刀中の軍医等のジオラマが配置されていました。特に負傷兵は今にも呻き声が聞こえてきそうなほど写実的なものでした。他には、戦後に体内から摘出された銃弾や割れた眼鏡、軍帽、生の証言映像、負傷兵のための社会復帰事業の概要等が展示されていました。
訪問を終えて(セントラル労組からの報告)
訪問を終えて(セントラル労組からの報告)
訪問した中で最も印象に残ったものは、「昭和館」の戦災孤児等の暮らしぶりと、「しょうけい館」の負傷兵の社会復帰でした。
GHQにより、戦没者に対する恩給や一部の重症者を除いて軍人恩給が打ち切られたり、再就職にあたり身体障がい者となっていたことが、非常に苦しい生活を強いることになりました。
戦場で撃たれ、全身に激痛が走り、麻酔なしで切断され、神経を引きちぎられて失神し、生還できても「お前らのせいで負けた」と罵声を浴びせられ、重傷者ほど生活が困窮する、これが戦争の現実と思い知らされます。
一人ひとりの人生は、生まれた時から親をはじめとして多くの人々の協力や献身があって成り立っていますが、戦争はこれらの努力を容易に破壊します。
そして重要なことは、現在の日本にも、不幸な偶然から戦争に発展する危険性が常にあります。私たち一人ひとりが、戦争の悲惨さ、戦争がもたらす人々の困難を感じることが、少しでも戦争を遠ざけることにつながると信じつつ、平和資料館を訪問されてはいかがでしょうか。
セントラル労組が訪問した資料館
セントラル労組が訪問した資料館